
いけばなや茶道、書道をたしなみ、洋裁の学校にも通っていた母は、笑顔が優しい人でした。大正15年2月に和菓子屋の次女として生まれた母が、私を産んだのは39歳間近の1月。初産でしたから、当時にしたら超高齢出産だったと思います。無事に生まれて、今の私があります。ほんとうに感謝です。今生きていれば、エリザベス女王と同い年です。
さて、母は、おそらく昭和15年から16年ごろ、タイピスト学校に通い、立川の陸軍航空技術研究所で邦文タイピストとして働き始めました。遺品の中に、航空技術研究所の母あてへの手紙が残されていてわかりました。手紙は母の兄が戦地から送ったものです。その中に「タイプは頑張っているか」とか「上達したか」と書いてありました。母は10代の頃からタイピストとして働いていたことになります。陸軍の施設で女性がタイピストとして働いていたことは思いがけないことでした。
母が他界して20年が過ぎました。10年ほど前の実家の取り壊しの際、箪笥の奥から手紙の束が見つかりました。持ち帰ったものの、ずっと読むことが出来ませんでした。が、コロナ禍で家にいる間、いろいろ整理しているうちに、手紙を開く気持ちになりました。手紙は戦地からのものがほとんどでした。知らなかったことがいくつもありました。読んでもよくわからないこともありました。そして検閲を受ける中での手紙の文章にどこまでが本心なのだろうかと思いました。
しかし、まぁ、達筆なのか、なんなのか分かりませんが、読めない字や難しい字がたくさんありまして、苦労しております。
父の軍歴や陸軍航空技術研究所での事は、まだ調査中です。本籍地の庁舎には父の軍歴が保存されていなかったため、厚生労働省と防衛省への問い合わせが必要になりました。合わせて立川に問い合わせた資料の到着も待っているところです。
