自治体や防衛省などへ問い合わせましたが、現在のところ、父の軍歴や陸軍航空技術研究所での公式記録は見当たりませんでした。陸軍航空技術研究所の名簿自体が残っていないそうです。ただ、手元の資料と防衛省防衛研究所の方のご尽力で、だいたいの事はわかりました。以下はその推測です。
父は1942年(昭和17)年1月に繰り上げ卒業で国立の専門学校電機科(旧制専門学校の事で大学の前身。今の単科大学に近い)から、この陸軍航空技術研究所に入所しました。まだ、ひとつの陸軍航空技術研究所だった頃で、母と同じ第二部に所属し、第7課電機研究室に配属となりました。この第七課は、無線、電機、計測器、航法器材、写真器材の部署。この研究所で20歳を迎えた父は、技手として技師や上官の指示のもと、飛行機の電機関係の審査や研究をしていたんだと思います。
また、その後、組織改編後に配属されたのが、第5陸軍航空技術研究所でした。ここは航空に関する光学兵器に関する研究、もしくは航空に関する計測に関する研究の部署でした。
実は、母の方が父より先にこの陸軍航空技術研究所で働いていました。そこに1942年(昭和17年)に父が入所し、両親は出会ったのだと思います。この頃、父は19〜20歳、母は15〜16歳。タイプを打つ母を写真に収めたのは、父でしょうか。この写真からは穏やかな時を感じますが、戦争は次第に厳しくなっていきます。翌年1943年(昭和18年)父は戦地に行くこととなります。中国です。戦争は、いつの世でも、人と人とを分断します。
いま、ウクライナは戦地と化しています。国を守ろうと残る男性たち、夫や父親と離れて他国へと逃れる女性や子供たち。戦争は、日常を奪い、街を破壊し、人を傷つけ、心に深い闇をもたらします。子供たちの吸い込まれるほど清らかな瞳に映る景色は、どんな時も、あたたかい日常であってほしいのです。
参考
「戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給」朝雲新聞社
「近代日本の研究開発体制」名古屋大学出版会
「昭和記念公園は飛行場だった」立川中央公民館