飛行機が頭上を飛んでいく。
母は、その轟音と共に、B29を思い出すと、言っていたことがありました。

空襲。
立川飛行場も、標的となりました。
昭和19年5月頃から空襲が激しくなりました。立川飛行場の学習会がまとめた「昭和記念公園は飛行場だった」によると、当時の所員は、「B29、200機の爆撃にあい、昭和20年7月19日朝の空襲では、飛行場は、焼夷弾が雷雨のように降り、木造の建物は全て灰となり、コンクリートの建物は残骸と化し、格納庫は全て使えなくなった」と証言しています。死亡、重症者、数百名とも語っています。軍事施設は標的にされました。

また、立川飛行場では、敗戦間近には、電灯を全て消して狙われないようにしました。そこで、暗闇の中での作業や飛行のため、飛行士の視力の増強が考えられたのだそうです。第七陸軍航空技術研究所では、夜間視力増強食が研究されました。大学医学部眼科の教授が検討した結果、夜間の視力を良くするためには、魚(ミンタイ)の目がいいということになったそうです。

さて、いよいよ空襲が激しくなり、昭和20年の3月頃、各航空技術研究所は、疎開を始めました。山梨県や長野県などへの分散疎開です。
第五陸軍航空技術研究所は、山梨県に疎開しましたが、電気計測器部門は小石川の講談社に間借りして研究を進めたそうです。

私の両親は、というと、
父は昭和18年の春にはすでに戦争で中国にいました。母も航空技術研究所を退所し、昭和18年の初夏には地方公務員となりました。なので、2人とも疎開や立川飛行場での空襲は経験してないのだと思います。

父は陸軍航空技術研究所の軍属から戦地へ向かい軍人になったわけですが、唯一見つかった父の公式記録に、「昭和20年8月25日に第四陸軍航空技術研究所を除籍」というものがありました。第四陸軍航空技術研究所は電波兵器を扱う部所。終戦時は軍人ではなく軍属という事だったようです。

参考:「昭和記念公園は飛行場だった」立川中央公民館