明日8月15日は終戦の日です
立川飛行場は1922年に出来て今年で100年ですが、その歴史の中で、77年前の1945年には、戦争に負けアメリカ軍の基地となりました。その後1977年に日本に返還され、今は、公園や商業施設、自衛隊の駐屯地となっています。いろいろな変遷を経てきたわけですが、もともとは日本陸軍の飛行場でした。終戦となる少し前の昭和の立川飛行場を資料を頼りに振り返ってみています。
この飛行場の周りには、航空技術を研究する所、飛行士の学校、飛行機を作る工場などがあり、工場は陸軍と民間の両方ありました。
陸軍の工場は、名前を陸軍航空工廠といい、1937年(昭和12年)に愛知県から移転してきました。そばには従業員のための施設が作られ、650世帯の宿舎団地「八清住宅」がありました。今の昭島市当たりです。この宿舎地域は、従業員のためによく整備されていて、公園、病院、幼稚園、映画館、神社、風呂屋、マーケット、郵便局など、設備が整えられていたそうです。また女子寮もあり、建物はなんとピンク色だったそうです。建設は八日市屋清氏、設計は元早稲田大学名誉教授田辺泰氏でした。

飛行場の周りには、民間の飛行機会社の立川飛行機、昭和飛行機、中島飛行機などなどがあり、両親が働いていた陸軍航空技術研究所は、軍の工場である陸軍航空工廠だけでなく、この民間の飛行機会社と一緒に飛行機を作り上げていきました。


「昭和記念公園は飛行場だった」立川公民館より

こうしてみると、立川や昭島周辺は飛行機にまつわる施設がたくさんあったんですね。

立川に移転してきた陸軍航空工廠は、名古屋から引き継いで昭和15年頃からキー51という航空機を生産しました。「九九式軍偵察爆撃機」です。

(このキ-51のキとは、機体のキで、その後の番号は、通し番号です。ちなみに、エンジンの記号は発動機のハ、無線機は無線のム、でした)

昭和18年までに1482機製作したという記録もあります。

そして、昭和17年には航空技術研究所と協力して設計し航空工廠で試作されたのがキ-71でした。しかし、このキ-71は3機しか試作されませんでした。
そのあとは、航空工廠が独自に設計製作した唯一の機体がキ-93で、昭和18年7月に試作を始め20年3月に完成したものの、2号機の組み立て中に敗戦となりました。

それぞれの飛行機の記述を読むと、当時の戦況と共に、工夫を凝らした研究、製作が解ります。
たとえばキ-84は、金属製の戦闘機ですが、金属が少なくなってきて木製で作らなければならなくなり、立川飛行機で試作したそうです。しかし実際に木製で作ると金属よりも重くなってしまったそうです。

昭和17年ごろに航空技術研究所に在籍していた父も、これらの飛行機のどこかの部品を研究したのでしょう。電機なのか、計測器なのか、無線なのか、写真なのか。

十和田湖から引き上げられたキ-54の機体の計器や電機系統を見ながら、思いを巡らせています。

*参考
「昭和記念公園は飛行場だった」立川公民館
「立川飛行場物語」三田鶴吉